自由な視点 常識から解放された世界

 動画サイトで多重人格障害の人を取り上げている番組を見た。 障害という言い方がされていると私達は病気という認識をしてしまう。


 たしかに生活する上で不便な事も沢山あると思う。人格が沢山存在するので周囲の人が困惑して人間関係を築くのが難しかったり、主人格以外の人格が出てくるときその記憶が無かったり、大変な事も沢山あるだろう。

 

 けれどそれを可哀想という前提で見るのか、面白いとか素敵な特性という目で見るのかで全く違う世界を見る事になる。


 物事は中立でそこにポジティブな面もネガティブな面も見出す事ができる。


 ポジティブな面を見出すとしたら一つの人生で沢山の人格を味わえる。人格が沢山あるということは沢山の感情、感覚、好み、考え方を味わう事ができるお得な性質とも取れる。


 つまり私達が常識というステレオタイプのものの見方から自分を解放し、沢山の見方、

より高いところから物事を見れるようになるととてつもなく自由になる。

 目の前から壁は消えどこへでも自由に行けるようになる。


 そして人生を本当の意味で楽しめるようになるのかもしれない。

金融システムについて思う事

 パンデミックが起きている今金融システムについて思う事がある。


 コロナウィルスが流行する中、日本でも緊急事態宣言が政府からなされて様々な業種が営業をストップせざるを得ない中仕事が無くなって生活が出来なくなったらどうしよう、今後の見通しが立たない中混乱している人も多いと思う。


 仕事が無くなって、お金が入って来なくなっても私達は困らない。 なぜなら皆んな同じ状況だからだ。経済が回らないのならどうしたらいいか? ここから知恵を使うときだ。 そして意識を変革する事が求められる。 お金に頼れないなら助け合うしかない状況に今私達は立たされている。助け合う事が出来れば不安は消える。食糧が余っている人は食糧を与える。足りない人は遠慮せずきちんと貰う。正しい知識を持っている人は情報を与える。 医療資格を持っている人は看護にあたる。音楽ができる人は人々を楽しませたり、安心させる音楽を作ったり、演奏する。今持っているもの、できる事、得意な事を一人一人が与え合う。それができれば私達は何も困る事は無いしそういう経験をして、乗り越えた後は必ず成長と進化を遂げているはずだ。

 

 これが自分自身も他者も大切に生きる。永続可能な循環型システムなのではないかと思う。


 今私達の自分と他者を信じているかどうかが炙り出されている状況なのだと思う。


 自分や他者を信じる人は安心な未来を作り、疑いを持って不安に意識を向ける人は自分の取り分を守るのに必死になり全体が見えなくなり、買い占めやお金を得る事に必死になってしまい、結果感染者を増加させ、混乱が生じる。 そして一つの枠に囚われて不安な未来が創造されてしまう。


 今人類がどちらの方に進むか試されているときで、一人一人がどんな行動を取るかが本当に大切なのだと思う。


 どんな状況でも楽観的でいる事、袋小路のように見える時も私達は必ず希望の光を見出す事ができる。


 みんなで新しい次元に進みたい。

コロナについて今思う事

 コロナウィルスの感染が拡大して今思う事。

 地球が、私達に何かに気付いて欲しいというメッセージなのかなと思う。


 ふと映画「トゥモローランド」のシーンが思いだされた。確か「このままの生活を人間が続けた結果訪れる世界滅亡というシナリオを知って、人々は改善しようとするどころかそれを受け入れてしまった」というような内容だった。この映画は、少し前に生きていたエジソンなどの天才達が計算によって割り出した地球の行末を危惧して、地球の未来を真剣に考え未来を変えられる人材を探すというプロジェクトからニュートンという少女が未来を変えられる可能性があるとわかりそこから現在の行動を変えて最悪のシナリオを避けるというストーリーだ。


 今の考え方や行動を変える事で未来を変える事ができるということ。


 コロナウィルスの蔓延によって地球が気づいて欲しい事は方向性を見直すときだという事。 もう一度自分や世界にとって本当に大切なものは何か思い出して と言われている気がした。


 それから人間の身体に解毒作用や自然治癒力があるように地球にも同じようにそれが働いているのかもしれない。


 不謹慎かもしれないけれど人口は77億人を突破して食糧は追いつかない。さらに排気ガス等の汚染、温暖化、デトックスが起きても不思議ではないように思える。


 それからすでに情報化社会で沢山の情報が流れている中で、情報を冷静に読み取る力が必要になっていてそれの力を養ういい機会でもある気がする。


 ニュースが今日本でも何千人もの感染者が出ています。と言われてとても多くの人が感染していて怖いと感じるかもしれない。

 ただその数字が多いのか少ないのかを冷静に判断すると人口1.2億人いる中で1600人の感染という事になる、これを他の国と比較してみると感染率はもの凄く高いとは言えない。 こういった見方ができれば過度に恐れず状況に対して軽視するでもなく、冷静にある程度気をつけてあとは落ち着いていつも通りの生活をするという行動ができる。


 この状況から何かを学んで、この状況を生かしていくのが未来を変える一歩なのかもしれない。


 ある意味今この瞬間にしか体験できない事だから、その今を大切にしたい。


図形の意味を考える

 私は算数や数学が昔から苦手と感じていて、小学生の頃算数セットという悪魔の箱を見るだけで涙目になっていたくらいの苦い思い出のある教科だった。


 それなのに何故タイトルが「図形の意味を考える」なのかというと、唯一図形と証明は好きだったからだ。


 形やデザインを見て何故こんな形をしているんだろうと考えると面白い。


 例えばハート型、上の部分は二つに割れているけれど、下の部分はつままれたように閉じている。

 

 これはこの世界そのものを表しているように感じる。

上部は分離、二極を現していて、下部は統合されているワンネス。そしてハートの形全体でひとつ。つまり矛盾が同居した世界。

 

 分かれていると同時に繋がっている世界。それがこの図形に表されているんじゃないか。


 こんな風に考える事が謎解きのようで面白い。 何故生まれてきたのか。なぜ宇宙が出来たのか、確かな事がわからない世界で生きている中、何かそれを解明するヒントが散らばっている気がして、ミステリーサークルや、黄金比、古代から伝わっている図形、新生幾何学に興味が沸く。


 何かを伝えるとき言葉や文字で感覚的なものを伝えるのは大変だけど、図形ならシンプルに一度に沢山の情報を含ませる事ができる。しかも文字や言葉は国によって異なるが図形や数字は世界で共通の認識だから。


 世界にヒントが散りばめてあって気づく人は気づいて世界についてより知った状態でこの世を生きるという楽しみ方ができるようになるんじゃないのかなと思う。


無限の世界

 最近世界は無限だなと感じる。

パラレルワールドとかよく聞くけどそれを体感する。


 一見非現実的な響きだけれど、場面によって私たちは日々、毎瞬、色々な世界観に触れて生きている。


 私は YouTubeが好きでよく見るけど、面白実験動画から、料理、カップルチャンネル、心理や自己啓発等役立つ動画まで本当に多種多様なジャンルがあってどの動画を見るかによって全く違う世界観、感じ方、それによって起こる感情が変わる。


 それはまるでいくつもの次元を行き来しているように。

 実際意識の世界という視点で見たら常に私達は時空を超えて過去や未来、場所を行き来している。何故なら私たちには想像力が与えられているから。


 そして過去、現在、未来、身の周りにある様々な世界観、例えば文化の違い、日本の歴史そこから派生する衣食住、考え方。

 

 その無限の可能性の中から私たちが選択できる豊かさ、全てがある中で自分はどうしたいのか?


 全てカスタマイズ出来る世界で何が好きなのか?何を見たいのか?何を大切にしたいのか?何を心地いいと感じるのか?どんな感情を感じたいのか?


 世界は自由で本当に豊かだ。

そして全てが赦されている。


 その中で私は何がしたいの?

何もしたくないの?

それすら自由なのだから気ままに生きよう。

 

 


この世は幻想?

 今日はスピリチュアル等で言われいている幻想について私の感じる事。


 私は元々ファンタジーや精神世界に興味があったから、この世は幻想という話もある程度受け入れられた。


 それに生きづらさを抱えていたからこの世界が幻想で自分自身が投影していて、自分次第で世界を変える事が出来る。苦しみからぬけられるならこんないい話はないと思った。


 この世界は自分が信じたものが映し出される。つまり思い込みが作り出しているらしい。


 だから自分にとって都合のいい思い込みをすれば自分の思い通りの世界が作られる。


 私は自分にとって都合の良い思い込みをするようになって、少しずつ自分が信じたい世界を現実に投影出来るようになってきた。


 それでもやっぱり苦しい事はあるし、幻想に呑み込まれてしまって死んでしまいたくなる事もある。


 だけどやっぱり現実は幻想なのだろう。悩みや苦しみは頭の中にあって、それはバーチャルリアリティVRを観ているようなもの。


 その夢から覚めさせてくれるのが身体。五感を使って、自然に触れたり、運動をする時、湯船に浸かるとき、食事をするとき、音楽を聞くとき、五感を通して「感じる」とき私達は苦しみから解放された本当の自分でただそこに在るとき。

 

 私はここにいる、ここにいるとまるで私がいない事を恐れているエゴと呼ばれる仮の自分、(厳密にはエゴを含む) 絶対的な潜在意識の自分に出会う。


 その穏やかな至福の中にいるような自分。

表現を変えれば、一見空っぽな自分。それは絶対的に在るという事を信頼した自分。無い、空っぽを恐れていない自分。

それは絶対的に在ると知っている、広大な宇宙そのものである自分。

 

 それを思い出した時、私達は無限の力を持っている事を思い出す。

 全てを持っている私、全てである私。

 苦しみさえ、遊び道具だと思える。


 宇宙は毎瞬広がり続けている。

無限でどこまでも広大で莫大な力を持つわたしという存在。


 それなのに、いつも何かが足りない足りない、幸せになりたいと望むちっぽけな私が今日もいる。 


この世界はおもしろい。

受け取り上手になる!

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今日はお金やモノを受け取るときの意識についてお話したいと思います。


誰かにお金やモノを受け取るとき貴方は素直に喜んで受け取る事ができますか?


誰から受け取るか?金額やどんなモノかというのにもよると思います。


例えば近所のおばさんに飴を貰うのは簡単にできますよね。

でも100万円知らない人から貰うとなると躊躇しますよね。 

何か裏があるのではないか?騙されるんじゃないか?と


でも世の中にはお金やモノを喜んで受け取れる人もいるんです。


では大きな金額でも車や家など、普通では躊躇するようなモノを喜んでさらっと受け取れる人と、罪悪感を感じで受け取れない人とでは何が違うと思いますか?


それは器の大きさなんです。

私にはそんな金額受け取る価値がないと思ってるんです。

でもそもそも私達の命はお金では換算出来ないほど無限の価値があるんです。

だからお金でもモノでも受け取るときは感謝して受け取っていいんです♫


そしてもう一つ、受け取るときの意識によって変わるものがあるんです。


喜んで受けとったときは与えてくれた人を幸せにするのに対して、罪悪感をかんじながら申し訳ないという意識で受け取る事は相手から奪う意識になってしまうんですね。


一見申し訳なさそうに受けとる方が遠慮があっていいように見えますよね。


でも自分が相手に何かプレゼントしたときあが素直に喜んでくれたときと、申し訳無さそうに受けとったときの事を考えてみて下さい。

どちらが嬉しいし、プレゼントしてよかったと心から喜べるかは一目瞭然ですよね。


きっと素直に喜んで貰えたときだと思います。相手の豊かさを信頼しているとも言えると思います。相手は豊かだから私に与えても大丈夫という事なんです。


なのでこれからは、お金でもモノでも喜んで頂いちゃいましょう^ ^


それではまた⭐︎


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#豊かさ #信頼